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メモリ半導体60年史

米国が築き、日本が呑み込み、韓国が奪った舞台、そして今

2026年初頭、パソコンを新調しようとした人々は見積書を二度見することになりました。RAMの価格がここ数カ月で跳ね上がっていたからです。メーカーが大口顧客と四半期ごとに決める大口供給価格(固定取引価格)がわずか1四半期で2倍近くに高騰し、その余波が小売の見積書にまで押し寄せてきたのです。グラフィックボードでもCPUでもなく、もっとも平凡な部品だと思われてきたメモリでした。

理由は思いがけないところにありました。地球の裏側にあるデータセンターへ送り込まれるAIアクセラレータが、メモリをごっそりと吸い上げていたのです。同じ工場で同じウェハーを分け合って使うため、AIが多く持っていけばいくほど、自分の机の上にあるパソコンに載せるRAMが減ってしまう構造なのです。

メモリ半導体は、もともとこれほど丁重に扱われる部品ではありませんでした。安くて、ありふれていて、誰が作っても規格が同じモノ。業界では長年「半導体業界の米(コメ)」と呼ばれてきました。そのありふれた品を巡って60年の間に主役は3度入れ替わり、そのたびに一国の産業地図が根底から揺さぶられました。けれど、この舞台を最初に整えたのは、韓国でも日本でもなかったのです。

ひと目でわかる年表

米国

  • 1966 IBMのデナード、1トランジスタDRAMセルを考案
  • 1970 インテル1103発売、磁気コアメモリを駆逐

日本

  • 1976 日本通産省主導の超LSI技術研究組合が発足

韓国

  • 1983 サムスン東京宣言、9カ月で64K DRAMを開発

米国

  • 1985 インテル、自ら切り開いたDRAM市場からの撤退を決定

全世界

  • 1986 日米半導体協定の締結

日本

  • 1987 東芝、NAND型フラッシュメモリを学会で発表

韓国

  • 1992 サムスン電子、DRAM世界首位に浮上

全世界

  • 2009 キモンダ破産、チキンゲーム最初の大型犠牲者

韓国

  • 2013 JEDEC、HBMを標準規格に採択
  • 2025 SKハイニックス、33年ぶりにDRAM首位交代

中国

  • 2026 CXMTが上海上場、中国DRAMが4位に

なぜメモリーだけ価格が乱高下するのか

半導体を大きく分けると、システム半導体とメモリー半導体の2つになります。CPUやGPUのようなシステム半導体は、設計力で競い合うものです。会社ごとに回路が異なり、その上にソフトウェアが幾重にも積み重なります。一度市場に定着すれば、顧客が他社製品へと乗り換えるのは容易ではありません。「他と違ったものを作ること」がそのまま武器になる世界なのです。

メモリーは正反対です。DRAMは規格が標準化されているため、A社の製品もB社の製品も差し込むスロットの位置や信号をやり取りする方式が同じです。そうでなければ、コンピューターを作る側が部品を自由に選んで使えないからです。使い手には便利ですが、作る側にとっては残酷なルールです。設計によって他社と差別化する余地がほとんどないということを意味するからです。では、何で競い合えばよいのでしょうか。残されたのは原価ただ一つです。

だからこそメモリーは、規模の経済がそのまま勝負を決める産業なのです。丸いシリコン基板(ウエハー)1枚から、より多くの良品チップを取り出した側が勝ちます。回路を少しでも細かく緻密に描けば1枚から採れるチップの数が増え、不良品を少しでも減らせばそのうち売り物になるチップが増えます。この2つを他社より先に成し遂げれば、同じ価格で売ったとしても自社だけ利益が残るのです。

問題は、その生産能力を手に入れるためには、まず工場を建てなければならない点です。工場を1つ建設するのに数十兆ウォン台(数兆円規模)かかると言われていますが、その決断を製品価格が跳ね上がる前に下さなければなりません。工場を建てるには何年もかかるのに、建てるかどうかは今目の前にある価格を見て判断してしまうからです。

ここで、この産業特有のリズムが生まれます。価格が高ければ誰もが一斉に増産投資を行い、それらの工場が一斉に稼働し始める頃には製品がだぶついて価格が暴落します。価格が暴落すると皆が一斉に投資を止め、数年後に再び供給不足となって価格が高騰します。するとまた一斉に増設へと走るのです。この浮き沈みを業界ではシリコンサイクルと呼びます。景気循環が産業一つに丸ごと刻み込まれているようなものなのです。

ですからこの世界では、技術と同じくらい不況に耐え抜く体力が重要になります。価格が底を打っているときに持ちこたえて投資を続けた会社が、次の好況の主役になれるからです。逆に一度つまずいてしまえば、回復のチャンスそのものが失われます。次の好況がやってきたときに稼働させる工場がないからです。

これから語られる歴史の中で、主役は3度移り変わります。アメリカから日本へ、日本から韓国へ、そして今また揺れ動いています。その3回とも、すべてこのルールの下で起きた出来事なのです。

設計で競うシステム半導体と同規格で原価競争のメモリ半導体の対比 システム半導体 設計で競う 規格は自分で決める メモリ半導体 残る勝負は原価のみ シリコンサイクル

ここで覚えること この世界のルールをまず知ってこそ、後に続く3度の主役交代が偶然ではないことが見えてきます。

トランジスタ1つで1ビットを記憶する方法

1966年、IBMワトソン研究所のロバート・デナードがメモリ回路を見つめていました。当時、1ビットを記憶するにはトランジスタが6個も必要でした。6個が互いに支え合いながら状態を維持する仕組みだったのです。頑丈で高速でしたが、場所を取りすぎました。メモリ容量を増やそうとすれば、価格もその分だけ跳ね上がりました。

デナードの考えはこうでした。トランジスタ1つとキャパシタ1つで十分ではないか。キャパシタは電気を少し溜めておく器であり、トランジスタはその器を開閉する扉の役割さえ果たせばよいということです。電気が溜まっていれば1、空っぽなら0。読み取るときは扉を開けて器の中を覗き込み、書き込むときは扉を開けて満たすか空にすればよいのです。1968年にデナードはこの構造で米国特許を取得しました。

問題は、その器から電気が少しずつ漏れ出してしまうことでした。そのため、内容が消えてしまう前に絶えず読み取って再補充(リフレッシュ)し続けなければなりません。この再補充が必要なことから「動的(Dynamic)」という言葉が付き、DRAMとなりました。手間のかかる方法ですが、部品が6個から2個へと減りました。同じ面積にはるかに多くのマスを敷き詰められるという意味だったのです。メモリにとってこれは単なる改良にとどまらず、価格を桁違いに引き下げる変化でした。

ところが、この物語の最初のどんでん返しはここにあります。1970年にインテルが1103を発売し、商業的に成功した最初のDRAMとなりましたが、肝心の1103はデナードの1トランジスタセルを採用していませんでした。製造がより容易な3トランジスタ方式だったのです。1,024ビットを記録し、18ピンのパッケージに収められ、価格は約60ドルでした。洗練された設計ではなく、当時のプロセスで作って良品となる割合、すなわち歩留まりが確保できる方を選んだのです。

それでも1103は、それまでコンピュータメモリを支配していた磁気コアメモリを駆逐しました。磁気コアは、米粒より小さな磁石のリングに細い糸のような電線を手作業で通して作るものでした。容量を増やすには、それだけ人の手が必要だったのです。一方、シリコンの小片は、製造プロセスさえ確立できれば同じ労力で何倍も刷り出すことができました。手作業で編んでいた記憶装置が、工場で刷り出す製品へと変わった瞬間です。

半導体において「原理的に動く技術」と「実際に作れる技術」は別物です。勝負を決めるのは発明ではなく製造であるという合図が、産業の幕開けの年にすでに示されていたと言えます。

ここで覚えること 発明した者が必ずしも覇権を握るわけではないというこの産業の掟が、ここで初めて姿を現します。

インテルはなぜ、自ら生み出したDRAMを捨てたのか

1970年代のインテルはメモリ企業でした。今でこそCPUの会社として知られていますが、長い間会社を支え続けていたのはDRAMだったのです。DRAMの市場シェアが80%を超えていた時代もありました。ところが1984年には、2〜3%にまで落ち込んでいました。ほんの10年余りの間に起きた出来事です。

何があったのでしょうか。日本のメーカーが、はるかに故障しにくいDRAMを大量に市場へと投入し始めたのです。大型コンピュータを作る顧客企業は不良率の低さを見て調達先を乗り換え、インテルは生産量でも歩留まりでも圧倒されていきました。前の章で触れたルールのとおり、この勝負は設計ではなく「つくる能力」で決着がつく土俵でした。回路を巧みに描く技術など何の役にも立たない戦場に立っていたのです。

さらに頭を悩ませたのは、社内でDRAMが占めていた位置づけでした。研究開発の人材も、最も優れた生産ラインもDRAM部門に割かれていました。収益はすでにマイクロプロセッサから生まれているのに、会社の体つきは依然としてメモリ企業の形のままだったのです。

1985年、アンディ・グローブがゴードン・ムーアに問いかけました。もし私たちが追い出され、新しい経営者がやって来たら、その人物は何をするだろうか、と。答えは明らかでした。DRAMから撤退するだろう、と。なら、私たちがそれを実行すればいいじゃないか。二人はその日、自らが切り開いた市場から撤退することに決めたのです。

撤退は1986年に完了し、その年インテルは1億7,300万ドルの赤字を出しました。工場を畳み、社員を送り出すプロセスは、会社の根幹を切り落とすような苦痛を伴うものでした。グローブは後年、この決断を最高の経営判断と呼びました。

インテルが移っていった先はマイクロプロセッサでした。他人に規格を決められる製品ではなく、自らが規格を定められる製品であり、その上にソフトウェアが積み重なるほど顧客が離れられなくなる製品でした。一度その上でプログラムを組んでしまえば、他社のチップに乗り換えた途端にそれらのプログラムがすべて無駄になってしまうからです。インテルはコスト競争から逃げ出したのではなく、自分が勝てるルールの土俵へと乗り換えたのです

この選択が特別なのは、この後の歴史において同じ決断を下せた企業がほとんどいなかったからです。大半の企業は、かつて得意だった製品にしがみつき、価格が回復するのを待ち続けました。そしてその多くは、回復を目にすることのないまま終わりました。

米国の巨大企業の多くが、このようにしてDRAMから手を引きました。アイダホで創業したばかりのマイクロンくらいが残り、市場の主導権は日本のメーカーへと移っていきました。インテルの選択は、企業としては正解でした。ただ、その正しさの代償として、メモリという産業全体が太平洋を渡ることになったのです。

ここで覚えること 勝ちパターンが通用しなくなったとき、土俵そのものを乗り換えた稀有な事例――この後に登場する企業の多くは、この選択ができませんでした。

日本は品質で勝ち、何に足をとられたのか

1976年、日本の通産省が超LSI技術研究組合を立ち上げました。富士通・日立・三菱電機・NEC・東芝の5社が競争を一時脇に置き、ひとつの研究所に人を送り込みました。製品そのものでは競い合いながらも、それを作る装置や製造工程は一緒に研究しようという発想でした。1社単独では抱えきれないほどコストがかかる部分だけを選りすぐって束ねたのです。

この組合は1980年まで運営されました。1976年から79年までに投じられた政府補助金は約1億5000万ドルにのぼり、特許が1,000件以上生まれました。成果が出るのも早かったです。1977年にはNTTが世界で初めて64K DRAMを開発したと発表しました。1980年代初頭の64K DRAM市場において、日本の世界シェアは70%以上を占めました。1988年には日本が世界半導体市場の約51%を握り、米国は約37%でした。

日本が勝利した決め手は、価格ではなく品質でした。当時、DRAMの主要な顧客は企業や研究所で使われる大型コンピュータでした。1台に何千個ものメモリチップが使われるため、そのうちの1つに不具合が生じただけでも機械全体が止まってしまいます。そのため、不良率のわずかな差がそのまま購入の決定打になりました。日本メーカーは工程を緻密に管理して不良を減らす方向へと全社を最適化し、そのやり方で米国メーカーを圧倒したのです。

日本が生み出したのはDRAMだけではありませんでした。1987年には東芝の舛岡富士雄氏のチームがNAND型フラッシュメモリを学会で発表しました。電源を切ってもデータが残るメモリであり、のちにSSDやスマートフォンのストレージの原点となる技術でした。ところが、2002年に世界で初めて1Gb NANDの量産に成功してその市場の首位に立った会社は、サムスン電子でした。発明した者が必ずしもその果実を手にするわけではないというルールが、ここでも繰り返されたのです。

その間、DRAMの需要にも変化が起きていました。大型コンピュータからパーソナルコンピュータ(PC)へと主役が移っていったのです。PCを買う人は10年後のことなど心配しません。数年使って買い替えるものだからこそ、長く持ちこたえることよりも安いことのほうが重要でした。高信頼・高価格の製品に合わせて最適化された工程と組織は、十分に良くてはるかに安い製品の前では重すぎたのです。

重いというのは、決して怠惰だったという意味ではありません。むしろその逆です。不良を減らすために築き上げた検査工程やプロセス管理が緻密であればあるほど、価格を下げるためにそれを削ぎ落とす決断は、会社の誇りを否定することになってしまいます。自分たちを勝たせてくれた成功体験ほど、手放すのが難しいものなのです。

日本のシェアは1988年に頂点を極め、1992年から本格的に下落していきます。よく米国の通商圧力のせいだと語られますが、圧力はきっかけにすぎませんでした。本当の理由は、その間に売れるものの性質そのものが変わり、日本がその変化に合わせて自らのあり方を変えられなかったことにありました。

ここで覚えること ここで初めてはっきりと見えてきます――自分を勝たせてくれたやり方が、次のゲームでは足かせになるということが。

日本を阻もうとした規制は、なぜ韓国を育てたのか

1986年9月2日、日米半導体協定が締結されました。日本はダンピングをやめ、市場を開放すると約束しました。非公開の付属書簡(サイドレター)には、5年以内に日本市場における外国製半導体のシェアを20%にするという目標まで盛り込まれていました。関税を課す方式ではなく価格とシェアに直接介入する方式、つまり非関税障壁に近い介入でした。翌年、米議会はセマテック(SEMATECH)という官民合同コンソーシアムまで立ち上げました。

結果は思惑と少し違っていました。協定によって日本製DRAMの価格が上がると、市場に隙間が生まれました。その隙間に入り込んだのは、規制を求めた米国企業ではなく、そのとき歩み始めたばかりの韓国でした。

1983年2月8日、サムスンの李秉喆(イ・ビョンチョル)会長が東京のあるホテルで半導体事業への進出を公表しました。いわゆる「東京宣言」です。その年の11月7日、サムスンは64K DRAMの開発に成功しました。宣言から9か月後のことで、米国と日本に次ぐ世界3番目でした。もちろんその当時、日本はすでにその製品で世界市場を席巻していました。

サムスンが価格暴落の時期にも設備投資を増やしたというのは、この産業で今もよく語られる話です。先ほど見たシリコンサイクルを逆手に取る手法ですね。価格が底にあるときに建てた工場が、数年後に価格が上昇する頃にはすでに稼働している状態にするのです。読みを誤れば会社ごと吹き飛びかねない賭けでした。実際、同じ賭けに出て倒れていった企業がのちに幾つも現れます。確かなのは結果です。1992年9月、サムスンは世界で初めて64M DRAMを開発し、その年のシェア13.5%で東芝(12.8%)を抑えてDRAM世界1位に立ちました。1993年には、メモリ半導体全体でも1位になりました。

その次にやってきたのがチキンゲームです。需要が落ち込んでも誰も減産せず、むしろ増産して、原価の高い側が先に倒れるのを待つ戦いです。奇妙に聞こえるかもしれませんが、計算は明快です。売れば売るほど赤字になる価格でもラインを回し続ければ、原価の低い側は傷が浅く、原価の高い側はより大きな痛手を負います。そうして数四半期さえ耐え抜けば競合が一つ消え、そのパイが丸ごと生き残った側に転がり込んでくるのです。

現実はその通りになりました。2007年の1年間でDRAMの価格は85%下落し、2008年にはさらに58%落ち込みました。2009年1月、ドイツのキモンダが破産しました。シェア5位、約10%を握っていた企業であり、ドイツ政府が5億ドルを支援したものの、累積損失は30億ドルを超えていました。約1万2,000人が職を失いました。

韓国とて無傷だったわけではありません。1999年の通貨危機の後、政府主導のビッグディール(事業統合)によって現代電子がLG半導体を約21億ドルで買収し、新会社は100億ドル近い負債を抱え込みました。2001年にハイニックス半導体へと社名を変え、2012年2月にSKテレコムが3兆4,000億ウォンで株式21%を買い取ったことで、SKハイニックスとなりました。

日本DRAMの最後の砦だったエルピーダは持ちこたえられませんでした。2012年2月、4,480億円、約55億ドルの負債を抱えて会社更生法の適用を申請しました。2013年にはマイクロンが同社を買収し、日本DRAMの残骸を吸収しました。

こうしてDRAM市場は、事実上3社が分け合う構図になりました。韓国のサムスン電子とSKハイニックス、米国のマイクロンです。台湾のナンヤのように残ったメーカーもありましたが、その分け前は大きくありませんでした。かつてあれほどひしめき合っていた企業が、十数年の間に片手で数えるほどにまで減ってしまったのです。この寡占構造が、次のお話の背景となります。

チキンゲーム構造:底値での投資停止企業と増設企業の時間軸推移 DRAM価 投資停止のA社 工場なし 底値で増設のB社 稼働中 不況下の増設が好況期を制す

ここで覚えること 規制は狙いを定めた相手ではなく、その隣に立っていた者に届きました。2度目の主役交代が起きる場面です。

グラフィックカード用のニッチ技術は、いかにして産業の中心になったのか

メモリの競争は、長い間「容量」の戦いでした。同じ面積にいかにより多くの部屋を詰め込めるかが実力そのものだったのです。ところが、ある瞬間からボトルネックが別の場所に生じました。演算装置がいくら速くても、データが入ってくる通路が狭ければ計算は手持ち無沙汰になってしまいます。倉庫がいくら広くても、出入口が一つしかなければ荷物を運び出せないのと同じです。問題は容量ではなく、帯域幅でした。

その解決策として登場したのがHBMです。2013年10月、JEDECがSKハイニックスとAMDが共同開発した規格を標準として採択しました。その方式はこうです。シリコンから切り出したチップの単体(ダイ)を基板の上に平らに並べる代わりに上に積み重ね、シリコンを上下に貫く微細な配線で各層を接続します。こうして1つの塊あたり1,024ビットという広い通路を確保しました。さらに、その塊を演算装置のすぐ隣に配置することで、信号が行き来する距離も短縮したのです。

誤解されがちですが、HBMは全く新しい原理のメモリではありません。中身は普通のDRAMであり、変わったのはパッケージング(包装)です。ただ、そのパッケージングが極めて困難でした。ウェハーを紙よりも薄く削って穴を開け、何枚も狂いなく重ね合わせて貼り合わせなければならないからです。1層でも狂えば、塊全体を丸ごと廃棄しなければなりません。

2015年第1四半期にSKハイニックスがHBM1の量産を開始し、AMDのグラフィックカードに世界で初めて搭載されました。1つの塊で128 GB/sを叩き出しました。同じ時期、グラフィックカード用メモリとして広く使われていたGDDR5が約48 GB/s程度でしたから、その差は歴然でした。それでも業界の反応は冷ややかでした。製造が難しく価格が高いため、一部の高性能グラフィックカードにしか使われないニッチな製品と見なされていたのです。

そのような扱いは10年近く続きました。その間、2023年にはメモリの大不況が訪れました。サムスン電子の半導体部門が年間14兆8,800億ウォン、SKハイニックスが7兆7,300億ウォンの営業損失を出しました。各社が製造ラインを止め、投資を縮小していた年です。損失が兆ウォン単位で積み重なる中、顧客がまだ定かではないラインを維持し続けるのは、誰が見ても無謀な選択でした。撤退した側が間違っていたというより、当時はどちらにも正解など分かりませんでした。しかし、SKハイニックスは赤字を出しながらも、HBMラインだけは手放しませんでした

その間、外の世界ではゲームのルールが変わりつつありました。ディープラーニングモデルが巨大化するにつれ、演算装置が1回の計算を行うたびに読み込まなければならないデータ量が膨大になったのです。計算能力そのものよりも、データをどれほど素早く運び込めるかが性能を決定づける時代になりました。10年前にグラフィックカードの中だけで問題視されていたボトルネックが、今や世界で最も高価な半導体の足を引っ張っていたのです。

決断の結果はすぐに出ました。2024年、SKハイニックスはエヌビディアのAIアクセラレータ向けHBM3を事実上独占供給し、3月には次世代のHBM3Eの量産に入りました。そして2025年第1四半期、当時の市場調査会社集計でSKハイニックスのDRAM売上高シェアが36.9%に達し、サムスン電子の34.4%を逆転しました。1992年以降、初めてDRAMの首位が入れ替わった瞬間でした。

首位から転落した側にも理由がありました。サムスンが33年間トップを守り続けてきた方法は、標準規格のDRAMを誰よりも安く、誰よりも大量に生産することでした。均一な製品を大量に作り出すことに合わせて、工場も組織も磨き上げられていたのです。しかしHBMは毛色の異なる製品でした。顧客ごとに求められる仕様が異なり、薄く削ったダイを何層も重ね合わせるため、良品が得られる割合も低くなります。標準品を大量生産するように最適化された体質では、おいそれと手を出せない製品だったのです。日本が高信頼性の工程を手放せなかったように、今度はサムスンが自らを1位に押し上げた大量標準品の文法を手放すのが難しかったのです。

前の章でサムスンがやったことを、今度はSKハイニックスが成し遂げました。価格が底を打っていた時期に撤退しなかったたった1つのラインが、33年間固定されていた順位を揺るがしたのです。

DRAMとHBMの断面比較:横並びの細い配線と縦積みのTSV構造 汎用DRA G H G 1024bitの広帯域 中身は同じDRAM、変わったのは包装

ここで覚えること 3回目の転換点――今度は国ではなく企業の間で、同じルールが再び作動します。

メモリが半導体売上の半分をうかがう年

2026年第1四半期、世界のDRAM産業の売上は970億ドルでした。前の四半期より81%増えた数字です。同四半期の汎用DRAM固定取引価格は、一四半期で93〜98%上昇しました。ここまではトレンドフォース集計基準の話で、同じ集計におけるDRAM売上シェアはサムスン電子38.5%、SKハイニックス28.8%、マイクロン22.4%でした。

調査機関が異なれば数字も変わります。カウンターポイントリサーチの集計では、2026年第2四半期のDRAMシェアはサムスン電子38%、SKハイニックス25%、マイクロン24%、CXMT 10%、ナンヤ2%でした。HBMだけで見るとSKハイニックス50%、サムスン電子33%、マイクロン18%です。同機関の集計で2026年第1四半期のNANDフラッシュ売上は460億ドルと前年同期の約3.5倍に達し、そのうちサーバー向けSSDが43%を占めました。どの機関のどの四半期の数字なのかを抜きにして順位を語ると、たちまち間違った文になってしまいます。

数字そのものより注目すべきは、順位が入れ替わるスピードです。2025年第1四半期にはSKハイニックスがリードしていましたが、2026年に入るとトレンドフォースの第1四半期集計とカウンターポイントリサーチの第2四半期集計の双方がサムスン電子を1位に据えました。1〜2四半期で首位が入れ替わる市場だということです。3社が分け合う市場だからこそ、1社の工場1つ、新製品1つがたちまち順位を揺るがすのです。

価格がこれほど高騰したのには構造的な理由があります。HBMは同じ容量を作る際、一般的なDDR5よりもはるかに広いシリコン面積を使います。マイクロンが2026年8月に明かしたところでは約3倍であり、世代が進むほどその差は広がります。HBMを増やせば、その分一般的なDRAMに回せる生産能力が減るということです。AIサーバーの話が、手元のパソコンのRAM価格へと直結する導火線がここにあります。

重心も移り変わりました。ガートナーの予測基準では、2026年の世界メモリ売上は8,370億ドルに達し、半導体売上全体にメモリが占める割合は2025年の27%から2026年には54%へと急増します。もっとも、これは一機関の見通しにすぎず、同時期の他の調査機関はこれより低く見積もっています。それでも方向性だけは明白です。「安物の部品」扱いを受けていた品目が、産業の半分を占める座にまで駆け上がったのです。

4番目の走者もすでに盤上に入り込んでいます。中国は2016年5月に合肥でCXMTを、7月に武漢でYMTCを立ち上げ、メモリの国産化に乗り出しました。米国は2022年8月にCHIPS法によって自国内での製造に527億ドルを計上し、同年10月7日には対中輸出規制を発動して、DRAMの18nmハーフピッチ未満、3D NANDの128層以上の生産施設を事実上封じました。

しかし規制は最新プロセスを阻んだだけで、市場への参入まで止めることはできませんでした。CXMTは2026年7月27日に上海証券取引所に上場し、初日に466%急騰して579億2,000万元を調達しました。何もない更地から始まった会社が、わずか10年でDRAM第4位の事業者となり、資本市場の寵児となったのです。

メモリ覇権が米から日、日から韓へと移った時期と次の空白 米国 日本 韓国 設計市場へ移動 需要がPCへ 不況でも維持したライン

ここで覚えること 今ニュースで目にするRAM価格やシェア記事の正体――そして、4番目の走者がすでに盤上に入り込んでいるという事実です。

次の局面が始まるとき、何を見るべきか

未来を当てようとする必要はありません。その代わり、この物語が教えてくれたルールに照らして、どこを見ていれば局面の変化をいち早く察知できるのか、それだけを整理してみましょう。

一つ目は、HBMの世代交代です。HBM4は通り道を2,048ビットに広げ、1つの塊あたり約 2 TB/sを達成することを目標としています。この産業で順位が揺れ動いたのは、いつだって世代が切り替わる瞬間でした。新しい規格が登場すると、それまで積み上げてきた生産のノウハウが一度リセットされるからです。新しい世代をいち早く安定して量産できるようになった側が、その後の数年間の果実を手にします。

二つ目は、HBMが消費する生産能力です。AIがウェーハを多く奪うほど、PCやスマートフォンに回るメモリは減ります。 この負荷にどこまで耐えられるのか、あるいは生産能力を拡大して両方の需要を満たす道を選ぶのかが、価格の行方を左右します。

三つ目は、中国です。輸出規制の対象外にある成熟プロセスで供給量が増えれば、最も安価な価格帯から先に揺らぎます。低価格帯の製品価格が真っ先に崩れるかどうかに注目すればよいのです。これは技術競争というより、どれだけ長く赤字に耐えられるかの勝負です。この産業が幾度となく繰り返してきた、まさにあの戦いです。

四つ目は、次の不況です。サムスン電子とSKハイニックスは、AIによる供給不足が少なくとも2027年まで、長ければ2030年頃まで続く可能性があると警鐘を鳴らし、顧客企業は2027年分の供給量をあらかじめ押さえています。しかし、シリコンサイクルが消え去ったことなど一度もありません。今決定された増産投資が実際の製品として出てくるのは数年後であり、そのときの需要が今と同じままである保証は誰にもできません。価格が下落に転じる日に誰が投資を続けられるのか――これまで次の覇者は、常にその瞬間に決まってきました。今回もそうなるのかどうかは見届ける価値があります。

最後にもう一つだけ。この物語で脱落していった者たちは、決して作る技術が劣っていたから敗れ去ったわけではありませんでした。インテルはDRAMを商用化させた会社であり、東芝はNANDフラッシュを発明した会社であり、日本は品質において誰よりも先を行っていました。それでも局面が変わったとき、自らを勝利に導いてくれたやり方を手放せなかったのです。次の順番が誰なのかは、まだ誰にもわかりません。

ここで覚えること 予測ではなく観戦法です。世代交代、生産能力の配分、中国、そして次の不況――この4つだけに注目すればよいのです。

🤔 よくある誤解

✕ 誤解

メモリ半導体は設計が単純なため、技術的難易度が低い。

✓ 事実

設計が標準として定まっているということは、逃げ場がないということです。同じ規格を誰がより微細に、より高い歩留まりで作れるかだけが残されるため、プロセスの難易度はむしろ極端に高くなります。最先端のDRAMでは露光プロセスを何層にも重ねて行い、工場を1棟建てるのに数十兆ウォン台(数兆円規模)がかかると言われています。

✕ 誤解

HBMはDRAMとは異なる新しい種類のメモリである。

✓ 事実

HBMの中身は単なるDRAMです。違っているのはパッケージングです。DRAMのダイを垂直に積み重ね、シリコンを貫通する配線で結んで、ひと塊あたり1,024〜2,048ビットの通路を通しただけであり、0と1を記憶する原理が変わったわけではありません。

✕ 誤解

AIが使うのはHBMなのだから、一般のPC用RAMの価格とは関係がない。

✓ 事実

同じ工場で同じウェハーを分け合って使っています。HBMは同じ容量を作るのに通常のDDR5より約3倍広いシリコンを消費するため、HBMを増やせば増やすほど通常のDRAMの供給が減ってしまいます。2026年第1四半期に通常のDRAM固定取引価格が1四半期で93〜98%も跳ね上がった背景がまさにこれです。

✕ 誤解

サムスン電子はずっとメモリ首位を守り続けてきた。

✓ 事実

1992年からDRAM首位を守ってきましたが、2025年第1四半期にSKハイニックスに初めてその座を明け渡しました(当時の市場調査会社集計でSKハイニックス36.9%、サムスン電子34.4%)。2026年に入ってからはTrendForceの第1四半期集計、Counterpoint Researchの第2四半期集計ともにサムスン電子を首位に戻したものの、HBMにおいては依然としてSKハイニックス(50%)の後塵を拝しています。

💡 つまり ひとことで

メモリ半導体は規格が標準として定まっているため、設計ではなく原価と歩留まりで勝負が決まる産業です。そのため、巨大な工場を先駆けて建設し、不況を耐え抜いた側が勝利を収め、主導権は米国から日本へ、日本から韓国へと移り変わりました。3度の転換期において押し出された側は、作れなかったからではなく、ルールが変わったにもかかわらず自身を勝たせてくれた成功体験を手放せなかったために敗れました。AIがメモリを吸い上げる現在、その同じ冷徹なルールが、HBMへの世代交代と中国の台頭という新たな局面で再び作動しています。

参考資料

本文の年号と数字は以下の資料に基づいています。誤りを見つけたらお知らせください。

  1. Dynamic random-access memory (DRAM) — IBM歴史館 · IBM — デナードの1966年の着想、1968年の特許、インテルの3トランジスタセル商用化
  2. 1970: 半導体メモリが磁気コアと競合 — インテル 1103 · Computer History Museum — 1103の仕様と発売価格、磁気コアメモリの代替
  3. VLSIプロジェクトを動かした人々 · 半導体歴史館 — 1976年の超LSI技術研究組合設立と参加企業、1977年のNTTによる64K DRAM
  4. Chips in Japan: Industrial policy, decline and renewal · RIETI(経済産業研究所) — VLSIプロジェクトの補助金規模と成果、64K DRAM期の日本の市場シェア
  5. 東芝 NANDフラッシュ — チップの殿堂 · IEEE Spectrum — 舛岡富士雄氏らのチームによる1987年のNANDフラッシュ発表と「フラッシュ」という命名の由来
  6. フラッシュメモリ首位の原点 · サムスン半導体 技術ブログ — 2002年の世界初1Gb NAND量産とフラッシュメモリ世界首位獲得
  7. インテルの歴史 — DRAMとの別れ (1985) · Intel — 1985年の撤退決定とグローブおよびムーアの対話、1984年のシェア、1986年の赤字
  8. 1986年 日米半導体協定 · Wikipedia — 締結日、ダンピング防止・市場開放条項、サイドレターの外国産20%目標
  9. 日本はいかにして半導体産業を失ったか · TechInsights — 1988年の日本シェア約51%と米国約37%、1992年以降の下落
  10. [李秉喆物語] 1983年の東京宣言、半導体神話を記す · ニューシス — 1983年2月8日の東京宣言の経緯と同年11月の64K DRAM開発成功
  11. [建国60年…挑戦の瞬間] 1992年 世界初64M DRAM · 韓国経済 — 1992年の64M DRAMとシェア13.5%、東芝を抜いてDRAM世界首位へ浮上
  12. ドイツのDRAM救済融資、キモンダ破産で水泡に帰す · IEEE Spectrum — 2009年のキモンダ破産、政府支援と累積損失、2007〜2008年のDRAM価格下落
  13. マイクロン、エルピーダ再建計画の東京地裁認可を発表 · Micron Technology — 2012年のエルピーダ破産時の負債4,480億円と2013年のマイクロンの買収条件
  14. AMDが10年近く準備してきたHBM技術 · KitGuru — 2013年のJEDECによるHBM標準採択、SKハイニックス・AMD共同開発と1,024ビット構造
  15. HBM3EとHBM4 — 次世代広帯域幅メモリ設計ガイド · Siemens EDA Blog — HBM4の2,048ビットインターフェースとスタックあたり約2 TB/sの帯域幅
  16. SKハイニックス、サムスンを抜き世界DRAM首位に · The Korea Herald — 2025年第1四半期のSKハイニックス36.9%対サムスン34.4%、1992年以来初の順位逆転
  17. 固定取引価格の急騰で2026年第1四半期のDRAM産業売上高が81%増加 · TrendForce — 2026年第1四半期のDRAM売上高970億ドルとメーカー別シェア、固定取引価格の上昇率
  18. 四半期別 世界のDRAM・HBM市場シェア · Counterpoint Research — 2026年第2四半期のDRAM・HBMシェア
  19. 2026年第1四半期の世界NAND売上高、460億ドルで過去最高 · Counterpoint Research — 2026年第1四半期のNAND売上高とサーバー用SSDの比率43%
  20. マイクロン — HBMとDDR5のシリコン格差は世代ごとに広がる (Hot Chips 2026) · Tom's Hardware — HBMが通常のDDR5より約3倍広いシリコンを使うというマイクロンの発表
  21. 2026年の世界半導体売上高、1兆ドルの見通し · Gartner — 2026年のメモリ売上高見通しと半導体全体におけるメモリの比率
  22. サムスン電子テイラー工場 — CHIPS法支援プログラム · NIST / 米国商務省 — 2022年8月のCHIPS法制定と半導体製造支援527億ドル
  23. 米国の対中半導体・製造装置輸出規制 (2022年10月) · K&L Gates — DRAM 18nmハーフピッチ、NAND 128層などの規制基準線
  24. 中国CXMT、上海上場初日に466%急騰 · Tom's Hardware — 2026年7月の上場初日上昇率と調達金額
  25. サムスン・SKハイニックス、AI起因のメモリ不足は2027年以降まで続く可能性があると警告 · Tom's Hardware — 供給不足の長期化見通しと大口顧客の事前予約状況